松岡宏泰(ひろやす)現社長

松岡宏泰

▲松岡宏泰氏

洋画の国内配給の専門家

松岡宏泰氏は長年にわたり、東宝で洋画の配給を担当してきた。 主に、東宝の子会社の東宝東和に所属していた。 創業者・小林一三の子孫。1980年代及びその前後に長期政権を担った松岡功の息子である。まさに御曹司。弟はテニスの松岡修造。

<プロフィール>
出来事
1966年4月18日 イタリア、ローマ市生まれ
慶應義塾幼稚舎
1985年 慶應義塾大学法学部法律学科入学
1992年 米ピッツバーグ大経営大学院卒業
1994年 東宝東和入社
2008年 東宝東和社長
2014年 東宝取締役
2021年 取締役常務執行役員
2022年5月26日 東宝社長

<家系・親族>
続柄 名前
松岡功(元社長)
松岡修造(元テニス選手)
祖父 松岡辰郎(元社長)
曾祖父 小林一三(創業者)

在任中の出来事

コンプライアンス関連
  • ・「生きる LIVING」誇大広告事件
  • ・「セプテンバー5がアカデミー賞最有力候補」宣伝事件

高井英幸(ひでゆき)

ヴァージン・シネマズ買収

高井英幸の社長時代の2003年、東宝は外資系シネコン「ヴァージン・シネマズ・ジャパン」を買収した。ブランド名を「TOHOシネマズ」変えた。これによって、東宝はシネコン強化に一気に舵を切った。

1990年代から2000年代初頭まで、映画業界はシネコンを異端視していた。映画業界で最大手の東宝も、消極的だった。系列既存館への配慮があったからだ。

それでも外資によってシネコンは急成長を遂げた。系列に縛られず、上映期間も柔軟に設定し、人気作品を同時に複数のスクリーンで上映できるメリットがあった。 ワーナー・マイカルをはじめ、ユナイテッド・シネマ・インターナショナル(UCI)、ヴァージン、AMCなど、シネコンの多くは外資系企業だった。ば日本の映画興行界年は、10年間にわたって外資系の出店攻勢にさらされ続けていた。

シネコン参入への大きな経営転換は、高井英幸社長と松岡功会長のリーダーシップで行われた。

スクリーン数の1位を奪還

当時の映画館スクリーン数は、(1)ワーナー・マイカル(2)東宝グループ(3)松竹グループ(4)東映グループ、UCI(6)ヴァージン--の順だった。東宝はヴァージンのシネコン8館、81スクリーンを手に入れた。ワーナー・マイカルを抜いてトップの座を奪還した。さらに、ヴァージンがほぼ完成させていた東京・六本木ヒルズなどの超優良案件も獲得した。合計すると、12カ所117スクリーンが東宝グループに移った。

東宝はその後、「全スクリーンのシェア2割」を目標に拡大路線を歩んだ。

シネコン

このヴァージンシネマズ・ジャパンは、英国ヴァージン社が母体となって設立したシネコン会社である。 英国ヴァージン社は創業者リチャード・ブランソンで有名な新興企業である。 日本の映画興行子会社として1997年に発足したのが、ヴァージンシネマズ・ジャパンだった。(参考:アテル投資顧問)

山本マーク豪

とはいえ。英国ヴァージンが出資したのは、最初の1000万円だけだった。 それ以外は、日本の社長に就任した山本マーク豪(つよし)氏が中心となって、銀行などからお金を集めた。 山本マーク豪(Mark Yamamoto、現ケラー・ウィリアムズ ジャパンCEO)は当時30歳の青年だった。 彼は日系アメリカ人。1967年米国カリフォルニア出身。 慶応大学に留学した経験があった。 米国カリフォルニアのワーナーで採用され、日本のワーナーのシネコン会社に派遣された。 そこから、シネコン業界のサラリーマンとして経験を積んだ。 ワーナー等を退社した後、独立。シネコン事業の日本での立ち上げを、様々な大企業に提案していくなかで、興味を示したのがヴァージンだった。 そして、ヴァージンシネマズ・ジャパンが設立され、初代社長に山本豪氏が就いたのだった。 山本氏という起業家の提案で生まれた大企業ベンチャーだった。

投資ファンドの出資を経て、103億円で東宝に売却

その後、未公開株への投資を専門とするファンド「アント・キャピタル・パートナーズ」(旧:日興アントファクトリー、アントファクトリージャパン)から出資を受けた。 出資比率は35%だった。 その後、株式公開(IPO)の準備を進めていた。2003年の上場を目指した。

IPO準備中に、東宝から買収提案

しかし、その間に、東宝が買収を提案してきた。 2003年に全株式の買収で合意した。買収額103億円だった。 買収後の2003年9月末、山本マーク豪氏は社長を退任した。 株主だった山本氏は35歳で億万長者になった。

すべて自己資金

東宝は、買収資金をすべて自己資金で賄った。東宝が、超優良不動産をいくつも抱えており、「映画業界の不動産屋」とも呼ばれていた。資金はいくらでも確保できるのだ。

出遅れを挽回

もともと東宝の興行網は強かった。阪急東宝グループ創始者の小林一三氏が、戦前から、ターミナル駅周辺の一等地を選んで劇場をつくってきたからだ。ところが、郊外型シネコンが普及しだすと、繁華街の映画館はじりじり客足を落としていった。

強い興行網があったがゆえに、シネコンづくりで遅れをとってしまった。ヴァージン・シネマズなみのサイトを5年後に展開できる保障はない。ならば時間を買おうということになり、会社ごと買収したのだった。

座席予約システム「vit」の獲得

ヴァージンを買収するという決断は、東宝の将来に多大なメリットをもたらした。

その一つが、予約システム「vit」を獲得したことである。 「vit」は時代の最先端を走っていた。 vitは、ヴァージンシネマズ・ジャパンが開発したものだ。 ヴァージンシネマズの初代社長である山本マーク豪が開発を発案し、実現させた。 山本マーク豪は日本の映画業界において、インターネットによるチケット予約販売(座席予約)の必要性をいち早く確信していた人物であった。 そして、優れたシステムを開発すべく、果敢に挑戦した。

2度のシステム開発失敗

山本マーク豪は、1999年に、ヴァージンシネマズの日本1号店となるシネコンを開業させた。 そのとき、親会社のイギリスからシステムを導入していた。 当時のシネコンとしては、世界で最高と考えられていた。 1億円を投じた。 しかし、インターネットと連携していなかった。 山本マーク豪はネット販売を目指したが、システム会社はあまりやる気がなかったようだ。 そこで、そのシステムを廃止して、別のシステム会社に依頼した。 数億円を投じた。 しかし、その会社はまだ新しく、規模も小さかった。理想とするシステムを創り上げる実力がないことが判明した。 そのため、再びシステムを廃棄することにした。

今度はNECに依頼

そこで負けないのが、山本マーク豪の凄いところだ。 今度は、巨大IT企業のNECに依頼することにした。 NECといえば、名門中の名門である。 こんな会社に頼むとなると、費用な膨大になる。 それでもNECを選んだのには理由があった。 山本マーク豪が、NECの副社長だった水野幸男氏を個人的に知っていたからだ。

偉人・水野幸男

水野幸男氏はIT業界において歴史的な偉人として知られている。 「コンピューター産業の父」とも呼ばれる。 vitは、「ヴァージン・インターネット・チケット」の略である。 山本マーク豪氏は父親を通じて、2000年に水野氏と知り合ったという。 さらに巨額の費用を投じて、開発した。 まず、「ビームス」というNECのシステムに投資した。 されをベースに開発したのがvitだった。 vitでは、チケットがネット買えた。 使い勝手が良かった。 ダウンしない強靭なシステムだった。 ポップコーンなどの販売も管理できた。

TOHOシネマズが勝ち組になった原因

東宝は、ヴァージンシネマズを買収した後も、vitを使用し続けた。 他のシネコンよりも、使いやすいシステムであるため、映画ファンに支持された。 予約のしやすさは、TOHOシネマズが映画興行の業界において勝ち組になった要因の一つである。(参考:有宗良治

外資撤退の流れ

東宝がヴァージン・シネマズを買収してから、外資が日本企業にシネコンを売却し、撤退する流れができた。 住友商事が8割の株式を持っていたユナイテッド・シネマ(UC)は20015年夏、米国の映画館AMCが運営する「日本エイエムシー・シアターズ」を約50億円で買収した。

東宝躍進の立役者:松岡功(まつおか・いさお)

松岡功

▲松岡功氏

東宝が21世紀に躍進するための土台をつくったのは、松岡功(まつおか・いさお)氏である。1977年5月、東宝社長に就任。17年間の長期にわたって社長を務めた。その後も、代表権のある会長として経営を指揮した。

祖父は創業者の小林一三。父親も社長。息子の松岡宏泰氏(ひろやす)も2022年5月に東宝社長に就任。つまり、祖父から息子まで4代続けて社長になった。

略歴・プロフィール

1934年兵庫県生まれ。

学生テニスで日本一に

中学時代からずっとテニスに打ち込んだ。甲南大学のテニス部時代、「全日本学生」「毎日」「関西選手権」で優勝した。このほか、朝日全国招待大会など数々のタイトルを獲得した。184センチの長躯(く)から強烈なサーブを繰り出し「サーブの松岡」として知られた。

プロという選択肢も

今であれば、大学卒業後、プロの選手になる道もあった。しかし、当時、日本にテニスにプロの選手はなかった。それでも、日本テニス協会から競技を続けないかという誘いがあったという。

1957年、東宝入社

迷った挙句、普通に就職することにした。しかし、就職活動を始めるタイミングが遅れ、入社できそうなところがあまりなかったという。そこで、父方の祖父・小林一三が創立した東宝に入れてもらった。

1957年甲南大学を卒業し、東宝入社。日本映画の黄金時代だった。

少年時代の映画鑑賞の思い出

高校時代の1952年「風と共に去りぬ」にショックを受けた。日本での公開は1952年(昭和27年)だが、製作は1939年。「作品そのものの素晴らしさはもちろん、日本が食うや食わずの戦前に製作された、と聞き、日米の国力の違いに驚いた。あれほど豪華な作品は、今でも作れない」と語っている。

一族・家族

姓は違うが、創業者小林一三(いちぞう)の孫

祖父は、東宝の創業者で、阪急グループの元総帥の小林一三(いちぞう)氏。父親・辰郎氏(東宝社長)はその二男である。

辰郎氏は、「松岡汽船」のオーナーである松岡家に養子に入った。このため、姓が「小林」から「松岡」に変わった。

妻は、静子夫人(タカラジェンヌ)。子供は一女二男。次男は、プロテニス選手の松岡修造氏。長男は、2022年に東宝社長に就任することとなる松岡宏泰氏。

入社後の活動

松岡功が東宝に入社した1957年は、映画産業の黄金時代の最後のころだった。

関西支社に配属

入社後、関西支社に配属された。大阪の「北野劇場」の手伝いをした。この劇場では、映画と芝居をセットで見せていた。活況を呈していた。

切符切りや客の呼び込みなどを担当した。大道具やセットの準備などの裏方の手伝いもした。今でいえば、新人研修だった。

東京に異動

1958年に東京本社外国部に異動した。

ニューヨーク駐在

1960年、ニューヨークに転勤となった。東宝のNY事務所は、所長と駐在員の2人だけだった。

社長になる前の実績

藤本真澄(さねずみ)時代からの転換

松岡功氏は営業本部長時代、藤本真澄(さねずみ)氏が握っていた映画製作の決定権を奪取した。 東宝の製作部門の藤本時代(1995年スタート)は、前半こそ「社長シリーズ」「若大将シリーズ」「無責任シリーズ)などが絶好調だった。 しかし、1960年代後半になると、東映の「任侠映画」などに大敗北を喫するようになった(参考:東映 社長 歴代)。 やがて製作の決定権は、営業本部長だった松岡功氏に移行していくこととなる。

日本沈没の大成功(1973年)

営業本部長だった1973年、「日本沈没」で大成功した。「仕事で一番思い出に残る作品」と語っている。正月映画として公開した。「正月なのに『沈没』は、縁起悪い」という社内の声を押し切って、公開にこぎつけた。結果は、配給収入が20億円を超えた。

そのころまでは作品を作れば作るほど赤字が続き、どん底だった。「日本沈没」は救世主となった。東宝が不振から抜け出し、上昇気流に乗るきっかけとなった。

ホリプロや角川春樹事務所と提携

山口百恵、三浦友和が所属するホリプロと提携した。山口百恵主演の「伊豆の踊子」(1974年)、「潮騒(しおさい)」(1975年)などは大ヒットとなった。

さらに、当時、日本映画界の「台風の目」だった角川春樹事務所とも提携した。1977年2月の決算では純利益14億7100万円を計上した。

異業種やライバルの提携は、当時は革新的だった。合理主義に徹した祖父・小林一三との類似性を指摘する声も出た。

42歳で社長就任

東宝社長であった父親・辰郎氏が1974年、社長在任中に亡くなった。後任社長には、清水雅氏が就任した。

その後の1977年、副社長だった松岡功氏が昇格した。松岡氏はその時、42歳だった。

ヒット映画「若大将シリーズ」にちなんで、「東宝の若大将」と呼ばれていた。いずれは社長になると予想されていた。いわば既定路線だった。それまでの実績も十分あった。就任時は「大政奉還」「三代目襲名」などと言われた。

翌年の1978年から「日本アカデミー賞」がスタートした。

社長就任後の実績

映画館の再開発

都心にある東宝の映画館を、大型商業施設に変容させるプロジェクトを推進した。

1980年、大阪に「ナビオ阪急」を開業。大阪の梅田劇場と北野劇場を再開発し、大型ショッピングビルにした。

1984年、東京に「有楽町マリオン」をオープン。東京・有楽町の日本劇場跡地を再開発した施設だった。さらに、1987年、東京に「日比谷シャンテ」をつくった。

「東宝シンデレラ」

1984年から「東宝シンデレラ」のオーディションを始めた。第1回目は沢口靖子が受賞した。その後、斉藤由貴、水野真紀、長澤まさみらが東宝シンデレラから巣立った。

東宝スタジオへの大型投資

2003年、東京・成城の東宝撮影所に新しいスタジオを建設した。約40年ぶりの新スタジオだった。さらに、撮影所内に俳優控室や衣装室などを備えた「アクターズ・センター」、大道具棟、CM専用スタジオなども整備した。

清水雅(まさし)

清水雅(まさし)氏は、阪急百貨店や東宝の社長・会長を歴任した。

阪急電鉄の会長も務めた。

1994年12月24日死去した。

「阪急東宝グループの支柱的存在」(小林公平・阪急電鉄会長)として敬意を集めていた。

阪急・東宝グループの経営陣にとっても「事業の恩師。商人道を仕込んでもらった父」(福光尚次・阪急百貨店会長)だった。

1929年、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に入社した。阪急東宝グループの生みの親・小林一三氏に請われての入社だった。

阪神急行電鉄社の百貨店部門一筋に歩んだ。

1947年に百貨店部門の電鉄からの分離により、初代社長に就任した。

大井店、数寄屋橋店を開設し、東京に進出した。

百貨店経営の基盤を固めると、1957年10月、東宝社長となった。他界した小林富佐雄社長のあとを受けての就任だった。

「無法松の一生」「赤ひげ」などの秀作映画を配給した。

東宝を国内映画業界トップの収益力を持つ会社へと発展させた。

1966年、社長の座を、小林一三氏の二男・松岡辰郎氏に社長を譲った。自らは会長に就任した。

しかし、1974年、松岡辰郎社長が急逝する。すると、社長に復帰した。

1977年5月、故松岡辰郎氏の二男・松岡功副社長を社長に昇格させた。

小林家・松岡家の直接統治の合間に東宝の経営を支え、最後は「大政奉還」したのだった。

財界では「ガーさん」の名で親しまれた。

「デパートのたわごと」「小林翁に教えられるもの」などの著書を書いた。

東宝は1971年、映画制作部門を分社化した。当時はテレビの普及で映画人口は減る一方。中でも、松竹の「寅さん」や東映のヤクザ映画のような看板作品のなかった東宝の邦画は苦戦を強いられていた。

自社作品は年数本に絞るかわりに、外部の企画に門戸を開き、選別眼と人脈を培う配給サイドに軸足を移した。

結果、新たにできたのが「映画調整部」だ。外部の企業と提携し、配給作品の企画を進める部署だった。

後に、外部企業から年間100本近い企画が持ち込まれるようになった。テレビ局や出版社、広告会社などだ。この部署の活躍により、21世紀になってから売れる映画を続々と生むようになった。
(関連:松竹 社長 歴代

小林一三(いちぞう)(創業者)

小林一三

阪急、東宝グループの創業者の小林一三は“劇場主義”を掲げた。東宝は、自前の興行網(系列映画館)を持つ大手映画会社のなかでも、特に好立地に大型の映画館を有した。長らく映画館日本一の座に君臨してきた東京・有楽町の「日劇」はその象徴だった。

小林一三(いちぞう)氏のプロフィール

1873年(明治6年)生まれ。

1957年(昭和32年)死去。

山梨県出身。

1892年(明治25年)、慶応義塾卒業。

三井銀行(現三井住友銀行)に勤務。

1907(明治40年)、「箕面有馬(みのお・ありま)電気軌道」という電車の創立に参画した。 この電車は、通称「箕有(きゆう)電車」。阪急電鉄の前身となった。

専務を経て社長。

沿線の住宅開発を行った。

さらに、宝塚歌劇団を創設した。

東宝(東京の宝塚)の創設した。

初のターミナルデパート「阪急百貨店」を開業させた。

斬新な発想で阪急・東宝グループを築いた。

東京電燈(現東京電力)の社長も務めた。

さらに、日本軽金属の社長も務めた。

政治家としても活動した。

第2次近衛内閣の商工大臣に就任。

戦後の幣原内閣の国務大臣兼戦災復興院総裁を歴任した。

東宝の誕生

小林一三氏は、まず、阪急電鉄と宝塚歌劇の経営を軌道に乗せた。

その後の1932年、「東京宝塚劇場」の社長に就任した。59歳だった。

「東京宝塚劇場」は後に「東宝」に社名変更する。

つまり、東宝とは「東京版の宝塚」の略称だったのだ。

小林は「東京宝塚劇場」で、「家族が明るく遊べる娯楽街」をつくることを目論んだ。

1日に約20万人の往来がある東京・日比谷に白羽の矢を立てた。

1934年に東京宝塚劇場と日比谷映画劇場をオープンする。

1935年には歌劇の卒業生らで東宝劇団を設立した。その舞台となる有楽座を開いた。

一方、1937年には「東宝映画」を設立し、東宝劇団などの出演による映画の製作と配給に乗り出した。

動画

東宝スタジオの紹介動画 ↓


東宝、東映の戦後の歴史 ↓