東宝の歴代社長の一覧です。実績・家系・評価・評判など。創業者小林一三(いちぞう)と、その一族である松岡家の功、辰郎ほか。現社長は15代目の松岡宏泰氏(ひろやす、2022年5月26日就任/テニスの松岡修造の兄)。
就任年 | 名前 |
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2022年 |
松岡宏泰(ひろやす)
※創業者・小林一三のひ孫。元社長・松岡功の長男。テニス選手・松岡修造の兄 【説明▼】 |
2011年 |
島谷能成(しまたに・よししげ)
1952年3月5日、奈良市生まれ。京都大学(文学部)卒業。1975年東宝入社。 ※市川崑が78歳で撮った「四十七人の刺客」(1994年)の共同プロデューサーを務めた。東京の東宝撮影所に3億円強をかけてセットを造らことを了承した。 ※2003年、東宝のプロデューサーになったばかりの川村元気氏とともに、新海誠監督の東京・代々木の事務所を訪問。ここから関係を構築していき、新海&川村コンビによる「君の名は。」(2006年)などの大ヒット作が生まれることになった。 ※常務時代の2005年、「日本沈没」のリメークを樋口真嗣監督、草ナギ剛主演で公開。興行53億の大ヒットとなった。 |
2002年5月23日 |
高井英幸(ひでゆき)
※61歳で就任 ※真の映画オタク。東宝で社内一の映画通と言われていた。日本の映画黄金時代だった1950年代に青春期を過ごし、小学生のころから映画漬けの人生。「最高は大学2年の年間300本。映画から人生を学んできた」という。 ※専務から昇格 ※石田・前社長は顧問に。 ※1941年2月24日生まれ。東京出身 ※立教大学(文学部)卒業(1964年) ※映画人口が激減している1964年入社 ※入社後は興行部に配属。最初の職場は映画館。有楽座、スカラ座などに勤務。入り口でもぎりをやった。 約十年間を映画館部門で過ごした。 ・1975年4月、営業本部映画興行部係長 ・1977年4月、東宝映画出向(課長待遇) ※松岡功社長(現会長)の勧めで東宝映画に出向。6年間、日本映画の製作に携わる。どの監督の作品も、どの役者の映画もすべて観ていることが武器になった。 ※1984年から始まった「東宝シンデレラ」のたち上げ時に中心となって奔走、成功に導いた。松岡功社長から、新しいヒロイン発掘を命じられた。東宝が新人募集をするのは二十数年ぶり。経験者不在、ノウハウのない中での出発となった。応募総数3万1653通の大盛況。ビデオで撮った面接の模様を家にまで持ち帰り、何回も見直した。最終審査に向け、先行きの見えない中、高井氏は「ハッと見違えるような美しさになっていた女性」と再び会った。沢口靖子だった。 ・1983年4月、東宝営業本部映画調整部 ※製作と販売との調整役を務めた。「連合艦隊」「細雪」「学校の怪談」「ホワイトアウト」「大河の一滴」などの作品にかかわった。 ・1990年4月、映像本部映画調整部長 ・1993年5月、取締役 ※一社で製作・配給する時代が終わり、数社が持ち味を生かして(大作を)手がけ、当ててきた。その集大成として、1997年の「もののけ姫」でメディアミックス戦略を大成功させた。 ・1998年5月、常務取締役 ・2000年5月、専務取締役 【社長時代の実績】 ・ヴァージンシネマズ・ジャパンを買収し、外資系に比べて出遅れていたシネコン事業を強化。「TOHOシネマズ」大成功の基盤を築いた。 【説明▼】 ※座右の銘は「人間万事塞翁(さいおう)が馬」。大学2年の夏に盲腸炎・腹膜炎を併発して大手術に。夏季テストを逃し、1年留年となった。だが、このおかげで、当時、採用が1年おきだった東宝に入社できた。 |
1995年5月25日 |
石田敏彦(いしだ・としひこ)
※初の生え抜きトップ。 ※社長就任当時64歳 ※興行畑一筋。5年間の事業開発部長時代を除き、一貫して映画興行畑を歩んだ。1980年取締役(映画興行担当)、1986年常務、1992年専務、1994年5月から副社長。 ※事業開発部長時代、ディズニーランドとオリエンタルランドとの橋渡しを行ったり、三井不動産や京成電鉄など多くの異業種での知己を得たことが大きなプラスとなった。 ※副社長からの昇格。松岡功社長は会長に。松岡社長が還暦を迎えたのを機に交代。 ※1953年早稲田大学(文学部)卒、東宝入社。東宝の定期採用3期生だった。シナリオライターが志望で入社。 ※東京都出身 ※家族は妻と、社会人の息子二人。暇さえあれば実証的な歴史の本を読むのが趣味。好きな作家は吉村昭。 ※思い出深い映画は昭和二十年代の名作『逢い引き』。 【社長時代の実績】 ・「大都市型シネコン」に取り組んだ。郊外は、外資系が先行して出店しているため食い合いの状態となっていた。 ・また、北海道・函館や東京・新宿三丁目では、既成の賃貸ビルの中の事務所スペースなどを改築してシネコンにした。 ・2001年元日からは、3年間にわたって営業停止状態だった宝塚劇場が、地下に2スクリーンの映画館を併設し、強化された形で「新宝塚劇場ビル」として開館した。新宝塚劇場ビルの本格稼働後、近接する日比谷シャンテや日生劇場なども来館者、売上高とも目ざましく伸び、相乗効果をみせた。 ・ソニー子会社のソニー・アーバンエンタテインメントが2000年に東京・お台場に開設する複合娯楽施設「メディアージュ」のシネコンの共同経営に乗り出すことを決断。13スクリーンでオープンさせた。背景には、ワーナー・マイカルをはじめとする外資系興行会社の攻勢があった。外資系シネコンはそれまで、郊外を中心に出店していたが、ワーナーは1999年に横浜みなとみらい地区に進出。映画大手三社のおひざ元である都市部への出店に意欲を見せていた。 ・1997年、アニメ映画「もののけ姫」が大ヒット。「南極物語」の記録を塗り替えた。 ・1998年、「踊る大捜査線」が大ヒット。 ・2001年、「千と千尋の神隠し」が大ヒット。動員数・興行収入ともに日本新記録を達成した。この年は配給映画がすべてヒットした。通常、映画興行は秋季に伸び悩むが、その業界常識を一蹴し、この時期もヒットが続いた。 ・2002年2月に東京・有楽町センタービル内の日本劇場と日劇東宝、日劇プラザを改装し、座席を広くして音響効果などを高めた。 ・所有不動産の検証を全国的に行い、再開発計画に乗り出した。第一弾として、2001年11月末に営業を終了した横浜市の東宝会館を中心とした商業地域の再開発に着手し、2002年3月にビジネスホテルの建設を着工。ホテルの運営にあたっては、大和ハウス工業系のダイワロイヤルに建物を一括賃貸した。 ※2013年11月死去(享年83歳)。死因は心不全。 |
1977年 |
松岡功(いさお)
※創業者・小林一三の孫。松岡辰郎の次男 ※松岡宏泰の父親。松岡修造(テニス)の父親 【説明▼】 |
1974年 |
清水雅(まさし) <2度目の就任> ※東宝の中興の祖、阪急の大番頭 【説明▼】 |
1966年9月 |
松岡辰郎(たつろう)
※創業者・小林一三の次男。すなわち小林富佐雄(前々社長)の弟。もともとは「小林」姓だったが、大学卒業後に松岡汽船の創業者(松岡潤吉)の娘と結婚し、養子に入った。 ※1974年8月12日、在職中に死去(胃がん)。享年69歳。 |
1957年~1966年9月 |
清水雅(まさし)
※東宝の中興の祖、阪急の大番頭 映画製作は森岩雄、藤本真澄が担当。演劇は菊田一夫が担当。 【説明▼】 |
1955年~1957年10月 |
小林冨佐雄(ふさお) <2度目の就任> ※創業者・小林一三の長男 1957年3月体調を崩して病床に。同年10月、現役社長のまま死去。享年56歳。父・小林一三の死去から9か月後のことだった。 |
1951年9月 |
小林一三(いちぞう) ※創業者 【説明▼】 1951年8月6日に公職追放を解除されると同時に、相談役に復帰。 9月28日、自ら社長に就いた。当時78歳。 息子の冨佐雄氏から社長をはく奪する形となった。 冨佐雄の計画を継承し、全国主要都市で5年以内に100館の確保を掲げる。 立地の良い場所に、大型劇場を次々と建設した。 これらの土地から不動産収入が、後に大きな利益をもたらした。 砧(きぬた)撮影所への巨額投資を断行する。 1952年に4500万円、 1953年に1億7000万円、 1954年に2億円を投入。 1952年、独立していた黒澤明監督が東宝に復帰。 1954年、「ゴジラ」「七人の侍」「宮本武蔵」という3本の大作を公開。大成功する。 |
1950年9月 |
小林冨佐雄(ふさお)
※創業者・小林一三の長男 「興行重視」を掲げ、全国100館計画を打ち出す。 製作面では「大作主義」への回帰を標榜。阪急電鉄の支援による財政再建を打ち出した。 1950年12月、本社に企画本部を設置。文藝春秋の社長を本部長に迎える。 1951年2月、砧(きぬた)撮影所の所長だった森岩雄氏を顧問として復帰させる。 アメリカ視察を経て、製作本部長に就任。労働争議で離れていた監督やプロデューサーらを次々と呼び戻した。 藤本真澄、田中友幸、本木荘二郎らそうそうたるメンバーが復帰。 東宝の黄金時代を築くことになる。 1901年6月、山梨県生まれ。 東京外国語大学を卒業。1929年に東洋製罐に就職し、1936年に取締役。1946年社長までのぼりつめる。 この間、父親・小林一三の会社経営にも関与。帝国劇場の社長も務めた。 1957年10月1日に上顎癌のため慶應義塾大学病院で死去。 |
1949年 |
米本卯吉(うきち)
1950年8月、東宝の映画館で2週間の「空白」が生じるという事件が勃発。 借入金は3億円に膨張。 1950年9月、東映と提携。東映の作品を東宝の映画館で上映することになった。 |
1947年12月 |
渡辺銕蔵(てつぞう)
※法学者。東京帝国大学の元教授。元政治家。戦時中に「反戦」を訴え投獄された気骨ある言論人であるとともに、「反共産主義」「反ファシズム」の旗手でもあった。 ※東宝の社長就任後、労使対立(東宝争議)で強行路線をとる。 1936年衆院議員に当選。日本商工会議所専務理事などを歴任。 就任後、労務担当役員を設置。官僚出身で、労務対策に詳しい馬渕威雄(まぶち・たけお)氏を招いた。 「二つの赤との闘い」を掲げ、共産党系組合と赤字への対応に取り組んだ。 「緊急経理措置案」を発令。撮影所に「年間24本の制作」を義務付けるとともに、経営権や人事権は会社側にあると通告した。 1948年4月8日、撮影所関係で270人、全国で1200人の従業員の解雇を通告(当時の全従業員は約6500人)。 4月15日、組合が砧(きぬた)撮影所を占拠。戦後日本で最大の争議といわれた第3次ストライキに突入する。 8月13日に裁判所が、撮影所の明け渡しの強制執行を行うが、現場で抵抗される。 8月19日、武装警官2500人、米軍の戦闘機や戦車が撮影所を包囲。ついに組合が退去する。 10月19日、組合幹部20人が退社することで、第3次争議が終結。 1950年1月16日に東宝会長を辞任。自由党から参院選に出馬(落選)。 |
1947年3月 |
田辺加多丸(かたまる)
※創業者・小林一三の異母弟 ※第一勧業銀行(現みずほ銀行)理事 副社長からの昇格 小林一三が親族で固めようとしたことと、社長に引き受けてがなかったことのが就任理由だという。 労働組合の吊るし上げが悪化。心労の末に病に倒れた。 1947年12月、社長を突如辞任し、「反共」で知られる渡辺銕蔵を後任に据えた。 1950年3月13日、死去。 |
1943年 |
大澤善夫(よしお)
※東宝の前身の一つである京都の制作会社(J.O.スタヂオ)の創業者 1925年、アメリカの名門プリンストン大学卒業。アメリカ流の自由主義・民主主義的な思想を持っていた。それはそれで結構なことだが、結果的には労働組合の暴走を許す一因にもなってしまった。 1947年3月、GHQ公職追放該当者になったことに伴い退任。 同じく、渋澤秀雄会長、植村泰二(やすじ)、森岩雄(いわお)常務も退任。 1943年●月、「東京宝塚劇場」(演劇興行会社)と「東宝映画」が合併。「東宝(東宝株式会社)」としてスタートし、社長に就任。 資本金1142万円。渋澤秀雄会長、 1946年2月に労働組合が結成され、3月に東京・砧(きぬた)撮影所を舞台とする「第1次労働争議」が勃発する。大澤社長は「対話路線」で交渉にあたった。 その後、組合が共産党の支配下となり、先鋭化する。 10月に第2次争議が発生。穏健な社員たち(原節子ら)により「第二組合」が結成され、やがて「新東宝」となる。 12月に交渉成立。労働組合に経営への口出しを許す労使合議制のようなシステムが、砧(きぬた)撮影所に採用された。 小林一三は役員にならなかった。 1940年7月~1941年4月、近衛文麿内閣の商工大臣を務めた。 最後は統制経済派の軍部(東条英機ら)に追放させられた。 |
1937年 |
植村泰二(やすじ)
1936年、小林一三氏が「東宝映画配給」を設立。 1937年、小林一三氏が「東宝映画配給」を「PCL」「J.O.スタヂオ」と合併させ、「東宝映画」が発足。植村泰二氏が初代社長に就任。 |
アテル投資顧問(旧:スナップアップ投資顧問、河端哲朗代表)の映画業界史データによると、創業者の小林一三の孫・松岡功氏は1977年に社長に就任。17年間の長期政権となった。
▲松岡宏泰氏
松岡宏泰氏は長年にわたり、東宝で洋画の配給を担当してきた。 主に、東宝の子会社の東宝東和に所属していた。 創業者・小林一三の子孫。1980年代及びその前後に長期政権を担った松岡功の息子である。まさに御曹司。弟はテニスの松岡修造。
年 | 出来事 |
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1966年4月18日 | イタリア、ローマ市生まれ |
慶應義塾幼稚舎 | |
1985年 | 慶應義塾大学法学部法律学科入学 |
1992年 | 米ピッツバーグ大経営大学院卒業 |
1994年 | 東宝東和入社 |
2008年 | 東宝東和社長 |
2014年 | 東宝取締役 |
2021年 | 取締役常務執行役員 |
2022年5月26日 | 東宝社長 |
続柄 | 名前 |
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父 | 松岡功(元社長) |
弟 | 松岡修造(元テニス選手) |
祖父 | 松岡辰郎(元社長) |
曾祖父 | 小林一三(創業者) |
高井英幸の社長時代の2003年、東宝は外資系シネコン「ヴァージン・シネマズ・ジャパン」を買収した。ブランド名を「TOHOシネマズ」変えた。これによって、東宝はシネコン強化に一気に舵を切った。
1990年代から2000年代初頭まで、映画業界はシネコンを異端視していた。映画業界で最大手の東宝も、消極的だった。系列既存館への配慮があったからだ。
それでも外資によってシネコンは急成長を遂げた。系列に縛られず、上映期間も柔軟に設定し、人気作品を同時に複数のスクリーンで上映できるメリットがあった。
ワーナー・マイカルをはじめ、ユナイテッド・シネマ・インターナショナル(UCI)、ヴァージン、AMCなど、シネコンの多くは外資系企業だった。ば日本の映画興行界年は、10年間にわたって外資系の出店攻勢にさらされ続けていた。
シネコン参入への大きな経営転換は、高井英幸社長と松岡功会長のリーダーシップで行われた。
当時の映画館スクリーン数は、(1)ワーナー・マイカル(2)東宝グループ(3)松竹グループ(4)東映グループ、UCI(6)ヴァージン--の順だった。東宝はヴァージンのシネコン8館、81スクリーンを手に入れた。ワーナー・マイカルを抜いてトップの座を奪還した。さらに、ヴァージンがほぼ完成させていた東京・六本木ヒルズなどの超優良案件も獲得した。合計すると、12カ所117スクリーンが東宝グループに移った。
東宝はその後、「全スクリーンのシェア2割」を目標に拡大路線を歩んだ。
このヴァージンシネマズ・ジャパンは、英国ヴァージン社が母体となって設立したシネコン会社である。 英国ヴァージン社は創業者リチャード・ブランソンで有名な新興企業である。 日本の映画興行子会社として1997年に発足したのが、ヴァージンシネマズ・ジャパンだった。(参考:アテル投資顧問)
とはいえ。英国ヴァージンが出資したのは、最初の1000万円だけだった。 それ以外は、日本の社長に就任した山本マーク豪(つよし)氏が中心となって、銀行などからお金を集めた。 山本マーク豪(Mark Yamamoto、現ケラー・ウィリアムズ ジャパンCEO)は当時30歳の青年だった。 彼は日系アメリカ人。1967年米国カリフォルニア出身。 慶応大学に留学した経験があった。 米国カリフォルニアのワーナーで採用され、日本のワーナーのシネコン会社に派遣された。 そこから、シネコン業界のサラリーマンとして経験を積んだ。 ワーナー等を退社した後、独立。シネコン事業の日本での立ち上げを、様々な大企業に提案していくなかで、興味を示したのがヴァージンだった。 そして、ヴァージンシネマズ・ジャパンが設立され、初代社長に山本豪氏が就いたのだった。 山本氏という起業家の提案で生まれた大企業ベンチャーだった。
その後、未公開株への投資を専門とするファンド「アント・キャピタル・パートナーズ」(旧:日興アントファクトリー、アントファクトリージャパン)から出資を受けた。 出資比率は35%だった。 その後、株式公開(IPO)の準備を進めていた。2003年の上場を目指した。
しかし、その間に、東宝が買収を提案してきた。 2003年に全株式の買収で合意した。買収額103億円だった。 買収後の2003年9月末、山本マーク豪氏は社長を退任した。 株主だった山本氏は35歳で億万長者になった。
東宝は、買収資金をすべて自己資金で賄った。東宝が、超優良不動産をいくつも抱えており、「映画業界の不動産屋」とも呼ばれていた。資金はいくらでも確保できるのだ。
もともと東宝の興行網は強かった。阪急東宝グループ創始者の小林一三氏が、戦前から、ターミナル駅周辺の一等地を選んで劇場をつくってきたからだ。ところが、郊外型シネコンが普及しだすと、繁華街の映画館はじりじり客足を落としていった。
強い興行網があったがゆえに、シネコンづくりで遅れをとってしまった。ヴァージン・シネマズなみのサイトを5年後に展開できる保障はない。ならば時間を買おうということになり、会社ごと買収したのだった。
ヴァージンを買収するという決断は、東宝の将来に多大なメリットをもたらした。
その一つが、予約システム「vit」を獲得したことである。
「vit」は時代の最先端を走っていた。
vitは、ヴァージンシネマズ・ジャパンが開発したものだ。
ヴァージンシネマズの初代社長である山本マーク豪が開発を発案し、実現させた。
山本マーク豪は日本の映画業界において、インターネットによるチケット予約販売(座席予約)の必要性をいち早く確信していた人物であった。
そして、優れたシステムを開発すべく、果敢に挑戦した。
山本マーク豪は、1999年に、ヴァージンシネマズの日本1号店となるシネコンを開業させた。 そのとき、親会社のイギリスからシステムを導入していた。 当時のシネコンとしては、世界で最高と考えられていた。 1億円を投じた。 しかし、インターネットと連携していなかった。 山本マーク豪はネット販売を目指したが、システム会社はあまりやる気がなかったようだ。 そこで、そのシステムを廃止して、別のシステム会社に依頼した。 数億円を投じた。 しかし、その会社はまだ新しく、規模も小さかった。理想とするシステムを創り上げる実力がないことが判明した。 そのため、再びシステムを廃棄することにした。
そこで負けないのが、山本マーク豪の凄いところだ。 今度は、巨大IT企業のNECに依頼することにした。 NECといえば、名門中の名門である。 こんな会社に頼むとなると、費用な膨大になる。 それでもNECを選んだのには理由があった。 山本マーク豪が、NECの副社長だった水野幸男氏を個人的に知っていたからだ。
水野幸男氏はIT業界において歴史的な偉人として知られている。 「コンピューター産業の父」とも呼ばれる。 vitは、「ヴァージン・インターネット・チケット」の略である。 山本マーク豪氏は父親を通じて、2000年に水野氏と知り合ったという。 さらに巨額の費用を投じて、開発した。 まず、「ビームス」というNECのシステムに投資した。 されをベースに開発したのがvitだった。 vitでは、チケットがネット買えた。 使い勝手が良かった。 ダウンしない強靭なシステムだった。 ポップコーンなどの販売も管理できた。
東宝は、ヴァージンシネマズを買収した後も、vitを使用し続けた。 他のシネコンよりも、使いやすいシステムであるため、映画ファンに支持された。 予約のしやすさは、TOHOシネマズが映画興行の業界において勝ち組になった要因の一つである。(参考:有宗良治)
東宝がヴァージン・シネマズを買収してから、外資が日本企業にシネコンを売却し、撤退する流れができた。 住友商事が8割の株式を持っていたユナイテッド・シネマ(UC)は20015年夏、米国の映画館AMCが運営する「日本エイエムシー・シアターズ」を約50億円で買収した。
▲松岡功氏
東宝が21世紀に躍進するための土台をつくったのは、松岡功(まつおか・いさお)氏である。1977年5月、東宝社長に就任。17年間の長期にわたって社長を務めた。その後も、代表権のある会長として経営を指揮した。
祖父は創業者の小林一三。父親も社長。息子の松岡宏泰氏(ひろやす)も2022年5月に東宝社長に就任。つまり、祖父から息子まで4代続けて社長になった。
1934年兵庫県生まれ。
中学時代からずっとテニスに打ち込んだ。甲南大学のテニス部時代、「全日本学生」「毎日」「関西選手権」で優勝した。このほか、朝日全国招待大会など数々のタイトルを獲得した。184センチの長躯(く)から強烈なサーブを繰り出し「サーブの松岡」として知られた。
今であれば、大学卒業後、プロの選手になる道もあった。しかし、当時、日本にテニスにプロの選手はなかった。それでも、日本テニス協会から競技を続けないかという誘いがあったという。
迷った挙句、普通に就職することにした。しかし、就職活動を始めるタイミングが遅れ、入社できそうなところがあまりなかったという。そこで、父方の祖父・小林一三が創立した東宝に入れてもらった。
1957年甲南大学を卒業し、東宝入社。日本映画の黄金時代だった。
高校時代の1952年「風と共に去りぬ」にショックを受けた。日本での公開は1952年(昭和27年)だが、製作は1939年。「作品そのものの素晴らしさはもちろん、日本が食うや食わずの戦前に製作された、と聞き、日米の国力の違いに驚いた。あれほど豪華な作品は、今でも作れない」と語っている。
祖父は、東宝の創業者で、阪急グループの元総帥の小林一三(いちぞう)氏。父親・辰郎氏(東宝社長)はその二男である。
辰郎氏は、「松岡汽船」のオーナーである松岡家に養子に入った。このため、姓が「小林」から「松岡」に変わった。
妻は、静子夫人(タカラジェンヌ)。子供は一女二男。次男は、プロテニス選手の松岡修造氏。長男は、2022年に東宝社長に就任することとなる松岡宏泰氏。
松岡功が東宝に入社した1957年は、映画産業の黄金時代の最後のころだった。
入社後、関西支社に配属された。大阪の「北野劇場」の手伝いをした。この劇場では、映画と芝居をセットで見せていた。活況を呈していた。
切符切りや客の呼び込みなどを担当した。大道具やセットの準備などの裏方の手伝いもした。今でいえば、新人研修だった。
1958年に東京本社外国部に異動した。
1960年、ニューヨークに転勤となった。東宝のNY事務所は、所長と駐在員の2人だけだった。
松岡功氏は営業本部長時代、藤本真澄(さねずみ)氏が握っていた映画製作の決定権を奪取した。 東宝の製作部門の藤本時代(1995年スタート)は、前半こそ「社長シリーズ」「若大将シリーズ」「無責任シリーズ)などが絶好調だった。 しかし、1960年代後半になると、東映の「任侠映画」などに大敗北を喫するようになった(参考:東映 社長 歴代)。 やがて製作の決定権は、営業本部長だった松岡功氏に移行していくこととなる。
営業本部長だった1973年、「日本沈没」で大成功した。「仕事で一番思い出に残る作品」と語っている。正月映画として公開した。「正月なのに『沈没』は、縁起悪い」という社内の声を押し切って、公開にこぎつけた。結果は、配給収入が20億円を超えた。
そのころまでは作品を作れば作るほど赤字が続き、どん底だった。「日本沈没」は救世主となった。東宝が不振から抜け出し、上昇気流に乗るきっかけとなった。
山口百恵、三浦友和が所属するホリプロと提携した。山口百恵主演の「伊豆の踊子」(1974年)、「潮騒(しおさい)」(1975年)などは大ヒットとなった。
さらに、当時、日本映画界の「台風の目」だった角川春樹事務所とも提携した。1977年2月の決算では純利益14億7100万円を計上した。
異業種やライバルの提携は、当時は革新的だった。合理主義に徹した祖父・小林一三との類似性を指摘する声も出た。
東宝社長であった父親・辰郎氏が1974年、社長在任中に亡くなった。後任社長には、清水雅氏が就任した。
その後の1977年、副社長だった松岡功氏が昇格した。松岡氏はその時、42歳だった。
ヒット映画「若大将シリーズ」にちなんで、「東宝の若大将」と呼ばれていた。いずれは社長になると予想されていた。いわば既定路線だった。それまでの実績も十分あった。就任時は「大政奉還」「三代目襲名」などと言われた。
翌年の1978年から「日本アカデミー賞」がスタートした。
都心にある東宝の映画館を、大型商業施設に変容させるプロジェクトを推進した。
1980年、大阪に「ナビオ阪急」を開業。大阪の梅田劇場と北野劇場を再開発し、大型ショッピングビルにした。
1984年、東京に「有楽町マリオン」をオープン。東京・有楽町の日本劇場跡地を再開発した施設だった。さらに、1987年、東京に「日比谷シャンテ」をつくった。
1984年から「東宝シンデレラ」のオーディションを始めた。第1回目は沢口靖子が受賞した。その後、斉藤由貴、水野真紀、長澤まさみらが東宝シンデレラから巣立った。
2003年、東京・成城の東宝撮影所に新しいスタジオを建設した。約40年ぶりの新スタジオだった。さらに、撮影所内に俳優控室や衣装室などを備えた「アクターズ・センター」、大道具棟、CM専用スタジオなども整備した。
清水雅(まさし)氏は、阪急百貨店や東宝の社長・会長を歴任した。
阪急電鉄の会長も務めた。
1994年12月24日死去した。
「阪急東宝グループの支柱的存在」(小林公平・阪急電鉄会長)として敬意を集めていた。
阪急・東宝グループの経営陣にとっても「事業の恩師。商人道を仕込んでもらった父」(福光尚次・阪急百貨店会長)だった。
1929年、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に入社した。阪急東宝グループの生みの親・小林一三氏に請われての入社だった。
阪神急行電鉄社の百貨店部門一筋に歩んだ。
1947年に百貨店部門の電鉄からの分離により、初代社長に就任した。
大井店、数寄屋橋店を開設し、東京に進出した。
百貨店経営の基盤を固めると、1957年10月、東宝社長となった。他界した小林富佐雄社長のあとを受けての就任だった。
「無法松の一生」「赤ひげ」などの秀作映画を配給した。
東宝を国内映画業界トップの収益力を持つ会社へと発展させた。
1966年、社長の座を、小林一三氏の二男・松岡辰郎氏に社長を譲った。自らは会長に就任した。
しかし、1974年、松岡辰郎社長が急逝する。すると、社長に復帰した。
1977年5月、故松岡辰郎氏の二男・松岡功副社長を社長に昇格させた。
小林家・松岡家の直接統治の合間に東宝の経営を支え、最後は「大政奉還」したのだった。
財界では「ガーさん」の名で親しまれた。
「デパートのたわごと」「小林翁に教えられるもの」などの著書を書いた。
東宝は1971年、映画制作部門を分社化した。当時はテレビの普及で映画人口は減る一方。中でも、松竹の「寅さん」や東映のヤクザ映画のような看板作品のなかった東宝の邦画は苦戦を強いられていた。
自社作品は年数本に絞るかわりに、外部の企画に門戸を開き、選別眼と人脈を培う配給サイドに軸足を移した。
結果、新たにできたのが「映画調整部」だ。外部の企業と提携し、配給作品の企画を進める部署だった。
後に、外部企業から年間100本近い企画が持ち込まれるようになった。テレビ局や出版社、広告会社などだ。この部署の活躍により、21世紀になってから売れる映画を続々と生むようになった。
(関連:松竹 社長 歴代)
阪急、東宝グループの創業者の小林一三は“劇場主義”を掲げた。東宝は、自前の興行網(系列映画館)を持つ大手映画会社のなかでも、特に好立地に大型の映画館を有した。長らく映画館日本一の座に君臨してきた東京・有楽町の「日劇」はその象徴だった。
1873年(明治6年)生まれ。
1957年(昭和32年)死去。
山梨県出身。
1892年(明治25年)、慶応義塾卒業。
三井銀行(現三井住友銀行)に勤務。
1907(明治40年)、「箕面有馬(みのお・ありま)電気軌道」という電車の創立に参画した。 この電車は、通称「箕有(きゆう)電車」。阪急電鉄の前身となった。
専務を経て社長。
沿線の住宅開発を行った。
さらに、宝塚歌劇団を創設した。
東宝(東京の宝塚)の創設した。
初のターミナルデパート「阪急百貨店」を開業させた。
斬新な発想で阪急・東宝グループを築いた。
東京電燈(現東京電力)の社長も務めた。
さらに、日本軽金属の社長も務めた。
政治家としても活動した。
第2次近衛内閣の商工大臣に就任。
戦後の幣原内閣の国務大臣兼戦災復興院総裁を歴任した。
小林一三氏は、まず、阪急電鉄と宝塚歌劇の経営を軌道に乗せた。
その後の1932年、「東京宝塚劇場」の社長に就任した。59歳だった。
「東京宝塚劇場」は後に「東宝」に社名変更する。
つまり、東宝とは「東京版の宝塚」の略称だったのだ。
小林は「東京宝塚劇場」で、「家族が明るく遊べる娯楽街」をつくることを目論んだ。
1日に約20万人の往来がある東京・日比谷に白羽の矢を立てた。
1934年に東京宝塚劇場と日比谷映画劇場をオープンする。
1935年には歌劇の卒業生らで東宝劇団を設立した。その舞台となる有楽座を開いた。
一方、1937年には「東宝映画」を設立し、東宝劇団などの出演による映画の製作と配給に乗り出した。