東宝躍進の立役者:松岡功(まつおか・いさお)社長とは

東宝が21世紀に躍進するための土台をつくったのは、松岡功(まつおか・いさお)社長である。

松岡功氏は、日本アカデミー賞が創設される前年の1977年に社長に就任。17年間の長期にわたって社長を務めた。その後も、代表権のある会長として経営を指揮した。

祖父は創業者の小林一三。父親も社長。息子の松岡宏泰氏(ひろやす)も2022年5月に東宝社長に就任。つまり、祖父から息子まで4代続けて社長になった。

略歴・プロフィール

1934年兵庫県生まれ。

中学時代からずっとテニスに打ち込んだ。

テニスで全日本学生チャンピオンの実績がある。

甲南大学のテニス部時代、全日本学生、毎日、関西選手権の三冠を制した。このほか、朝日全国招待大会など数々のタイトルを獲得した。デビスカップ(デ杯)選手でもあった。

184センチの長躯(く)から強烈なサーブを繰り出し「サーブの松岡」として知られた。

1957年、甲南大学を卒業。

1957年、東宝入社。日本映画の黄金時代だった。

1977年5月、東宝社長に就任した。

プロテニス選手にならず就職

今であれば、大学卒業後、プロの選手になる道もあった。

しかし、当時、日本にテニスにプロの選手はなかった。

それでも、日本テニス協会から競技を続けないかという誘いがあったという。

迷った挙句、普通に就職することにした。しかし、就職活動を始めるタイミングが遅れ、入社できそうなところがあまりなかったという。

そこで、父方の祖父・小林一三が創立した東宝に入れてもらった。

少年時代の映画鑑賞の思い出

1952年「風と共に去りぬ」にショックを受けた。

「風と共に去りぬ」が一番ショックを受けた作品だった。

日本での公開は1952年(昭和27年)だが、製作は1939年。

「作品そのものの素晴らしさはもちろん、日本が食うや食わずの戦前に製作された、ということを後年聞き、日米の国力の違いに驚いた。あれほど豪華な作品は、今でも作れない」と語っている。

一族・家族

姓は違うが、創業者小林一三(いちぞう)の孫

祖父は、東宝の創業者で、阪急グループの元総帥の小林一三(いちぞう)氏。

父親・辰郎氏はその二男である。

辰郎氏も元東宝社長。

辰郎氏は、「松岡汽船」のオーナーである松岡家に養子に入った。このため、姓が「小林」から「松岡」に変わった。

妻は、静子夫人(タカラジェンヌ)。

子供は一女二男。

次男は、プロテニスプレーヤーの松岡修造氏。

長男は、2022年に東宝社長に就任した松岡宏泰氏。

入社後の活動

松岡功が東宝に入社した1957年は、映画産業の黄金時代の最後のころだった。

関西支社に配属

入社後、関西支社に配属された。大阪の「北野劇場」の手伝いをした。この劇場では、映画と芝居をセットで見せていた。活況を呈していた。

切符切りや客の呼び込みなどを担当した。大道具やセットの準備などの裏方の手伝いもした。今でいえば、新人研修だった。

東京に異動

1958年に東京本社外国部に異動した。

ニューヨーク駐在

1960年、ニューヨークに転勤となった。東宝のNY事務所は、所長と駐在員の2人だけだった。

社長になる前の実績

日本沈没の大成功(1973年)

営業本部長だった1973年、「日本沈没」で大成功した。

「仕事で一番思い出に残る作品」と語っている。

正月映画として公開した。

「正月なのに『沈没』は、縁起悪い」という社内の声を押し切って、公開にこぎつけた。

結果は、配給収入が20億円を超えた。

そのころまでは作品を作れば作るほど赤字が続き、どん底だった。

「日本沈没」は救世主となった。

東宝が不振から抜け出し、上昇気流に乗るきっかけとなった。

ホリプロや角川春樹事務所と提携

山口百恵、三浦友和が所属するホリプロと提携した。

山口百恵主演の「伊豆の踊子」(1974年)、「潮騒(しおさい)」(1975年)などは大ヒットとなった。

さらに、当時、日本映画界の「台風の目」だった角川春樹事務所とも提携した。

1977年2月の決算では純利益14億7100万円を計上した。

異業種やライバルの提携は、当時は革新的だった。

合理主義に徹した祖父・小林一三との類似性を指摘する声も出た。

42歳で社長就任

東宝社長であった父親・辰郎氏が1974年、社長在任中に亡くなった。

後任社長には、清水雅氏が就任した。

その後の1977年、副社長だった松岡功氏が昇格した。

松岡氏はその時、42歳だった。

ヒット映画「若大将シリーズ」にちなんで、「東宝の若大将」と呼ばれていた。

いずれは社長になると予想されていた。いわば既定路線だった。それまでの実績も十分あった。

就任時は「大政奉還」「三代目襲名」などと言われた。

翌年の1978年から「日本アカデミー賞」がスタートした。

社長になった後の実績

映画館の再開発

都心にある東宝の映画館を、大型商業施設に変容させるプロジェクトを推進した。

1980年、大阪に「ナビオ阪急」を開業。大阪の梅田劇場と北野劇場を再開発し、大型ショッピングビルにした。

1984年、東京に「有楽町マリオン」をオープン。東京・有楽町の日本劇場跡地を再開発した施設だった。

さらに、1987年、東京に「日比谷シャンテ」をつくった。

「東宝シンデレラ」

1984年から「東宝シンデレラ」のオーディションを始めた。

第1回目は沢口靖子が受賞した。その後、斉藤由貴、水野真紀、長澤まさみらが東宝シンデレラから巣立った。

東宝スタジオへの大型投資

2003年、東京・成城の東宝撮影所に新しいスタジオを建設した。約40年ぶりの新スタジオだった。さらに、撮影所内に俳優控室や衣装室などを備えた「アクターズ・センター」、大道具棟、CM専用スタジオなども整備した。

清水雅

清水雅(まさし)氏は、阪急百貨店や東宝の社長・会長を歴任した。

阪急電鉄の会長も務めた。

1994年12月24日死去した。

「阪急東宝グループの支柱的存在」(小林公平・阪急電鉄会長)として敬意を集めていた。

阪急・東宝グループの経営陣にとっても「事業の恩師。商人道を仕込んでもらった父」(福光尚次・阪急百貨店会長)だった。

1929年、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に入社した。阪急東宝グループの生みの親・小林一三氏に請われての入社だった。

阪神急行電鉄社の百貨店部門一筋に歩んだ。

1947年に百貨店部門の電鉄からの分離により、初代社長に就任した。

大井店、数寄屋橋店を開設し、東京に進出した。

百貨店経営の基盤を固めると、1957年10月、東宝社長となった。他界した小林富佐雄社長のあとを受けての就任だった。

「無法松の一生」「赤ひげ」などの秀作映画を配給した。

東宝を国内映画業界トップの収益力を持つ会社へと発展させた。

1966年、社長の座を、小林一三氏の二男・松岡辰郎氏に社長を譲った。自らは会長に就任した。

しかし、1974年、松岡辰郎社長が急逝する。すると、社長に復帰した。

1977年5月、故松岡辰郎氏の二男・松岡功副社長を社長に昇格させた。

小林家・松岡家の直接統治の合間に東宝の経営を支え、最後は「大政奉還」したのだった。

財界では「ガーさん」の名で親しまれた。

「デパートのたわごと」「小林翁に教えられるもの」などの著書を書いた。

小林一三(創業者)

小林一三(いちぞう)氏のプロフィール

1873年(明治6年)生まれ。

1957年(昭和32年)死去。

山梨県出身。

1892年(明治25年)、慶応義塾卒業。

三井銀行(現三井住友銀行)に勤務。

1907(明治40年)、「箕面有馬(みのお・ありま)電気軌道」という電車の創立に参画した。この電車は、通称「箕有(きゆう)電車」。阪急電鉄の前身となった。

専務を経て社長。

沿線の住宅開発を行った。

さらに、宝塚歌劇団を創設した。

東宝(東京の宝塚)の創設した。

初のターミナルデパート「阪急百貨店」を開業させた。

斬新な発想で阪急・東宝グループを築いた。

東京電燈(現東京電力)の社長も務めた。

さらに、日本軽金属の社長も務めた。

政治家としても活動した。

第2次近衛内閣の商工大臣に就任。

戦後の幣原内閣の国務大臣兼戦災復興院総裁を歴任した。

東宝の誕生

小林一三氏は、まず、阪急電鉄と宝塚歌劇の経営を軌道に乗せた。

その後の1932年、「東京宝塚劇場」の社長に就任した。59歳だった。

「東京宝塚劇場」は後に「東宝」に社名変更する。

つまり、東宝とは「東京版の宝塚」の略称だったのだ。

小林は「東京宝塚劇場」で、「家族が明るく遊べる娯楽街」をつくることを目論んだ。

1日に約20万人の往来がある東京・日比谷に白羽の矢を立てた。

1934年に東京宝塚劇場と日比谷映画劇場をオープンする。

1935年には歌劇の卒業生らで東宝劇団を設立した。その舞台となる有楽座を開いた。

一方、1937年には東宝映画を設立し、東宝劇団などの出演による映画の製作と配給に乗り出した。 (長坂祐輔

動画

東宝スタジオの紹介動画 ↓


東宝、東映の戦後の歴史 ↓